毎日、退屈している。
退屈と寂しさをネットで潰すのはお手の物だ。
ネットニュースを見ていたら、こんな記事を見つけた↓
カンニング竹山さんの持論
"道端で写真を撮っている人、お前さ、撮って何になるの?自己満だろ"
私たちは、スマートフォンという名の電話機能付き情報交換カメラ機器を所有してもはや久しい。いつだって、どこにいても、だれかに言葉や画像や音声やら映像を送受できる。美しい情景を見れば、友人に送ることができる。素晴らしいことだ。
友達がいるなら。。。
私にも友達はいるが、写真を撮って気軽に送る人はいない。そもそも、おじさんってそういうことあまりしないような気がする。するのかな?少なくとも、私にそういう写真を送ってくる人がいないため、私も送らない。
竹山さんの言う「撮って何になるの?自己満だろ」について、一人で楽しむためでも、誰かに共有するでも、自己満だけど、自己満でいいよね。あらゆる情報発信は基本的には自己満じゃないかな。それに苛立ったりはしない。
このブログも自己満よねwww
あまり写真が好きじゃなくなった私
私は写真好きの父のもと育った。子供の時の家族旅行では、よく写真を撮ろうとあらゆる観光地に立たされたものだ。もともと自分のことを好きではない私は、そういう写真を撮るという行為に嫌悪感を示すようになった。写真を撮るには、その時の状況や場所などを考慮し、撮るべきるであると。私が嫌な気持ちになるなら、それは写真を撮るべきではないのだ。
ある程度歳をとった私と写真を撮ることも少なくなったが、私が地元を離れて会社に就職したときには両親が飛行機を使って、私のもとまで来てくれた。衝撃的だったことは、会社の前で写真を撮りたいと言い出して、断る私を「すぐ終わるから」という言葉で言いくるめ、撮影したのだ。会社の前で記念写真というのは、正直どうかと思う。その撮影時には、会社が休みだったので人がいなかったが。。。 父は警察官であるが、「警察署の前で定年退職写真撮ろうぜ」と言ったら快く引き受けてくれたのだろうか。そんな父は癌になり、余命宣告を受けているのは別の話。
父はいろいろと終活を進めているようであるが、「写真は捨てれないから撮るものじゃない」なんて言葉を言っている。「思い出は重いで~」みたいなジョークも聞いたことがあるがあながち間違っていないだろう。
ライブ会場でスマホを掲げる人
とある音楽ライブをネットで配信するなんてことも珍しくないこの世の中。私の好きなPorterRobinsonのライブ映像がyoutubeで公開されている。すごく素敵なことだ。素敵な音楽、パフォーマンス、映像、そして盛り上がる観客、スマホを掲げる観客。
『スマホで撮影しておけば、いつだって、その場所にいたことを思い出せる!誰かと共有できる!素敵でしょ!』
うーん。私もそう思う部分もあるけど、なんかなー--、、、。言葉にするのが難しい。ライブをスマホ越しに見るのって、なんか損しているような気がしてしまうし、そのライブ会場全体の景観を損ねているような気もするし。ただ、撮りたい人はとればいいとも思うけど。。。
料理を撮影する人
飲食店において、素敵な料理が出てきたら、写真を撮影する人。これを誰かに共有するのか、あるいは自分だけの食べ物日記でもつけているのか。ともかく、うらやましいなって感じる。「(わぁぁ、陽キャやなぁ~)」
ただ、料理を撮影する人で、撮影にこだわりすぎて時間をかけてしまい、温かい食事が冷めたり、冷たい食事が温くなったりしているのを見ると残念な気持ちになってしまう。
料理を作った人 "おいしいものを提供したい" "食事を楽しんでほしい"
写真を撮る人 ”おいしいものを食べたい” ”誰かと共有したい” "記録したい"
この共有したい、記録したいが強いあまりにおいしいものを食べたいを満足できていないならちょっともったいないなと思う。
ミニマル精神
私は写真を撮って、画像フォルダが増えていくのがあまり好きじゃない。画像フォルダには必要なものを置いておきたい。100%好きなものであったり、すごく重要なものなど。そういう風になると、結局消してしまう。写真を撮る気持ちも弱くなる。クラウドに上げたらいいじゃんとかそういうものじゃない。
そんな奴がブログすんなよ